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旧校舎に位置する国語準備室が令和にして切れ掛けの蛍光灯の瞬(またた)きを許しているのは、この城の主が古きを愛する少し変わった性質をしているからだ。蛍光灯の光は冷たいけれど隙がある。黄熱灯のような柔らかさはないが、まばらな親しみがあった。けれ…

幼少の頃に五感に刻まれた記憶は、鮮烈な体験となって折に触れて思い出されるのではないか。 ギリシア神話には、ペルセポネが冥界で石榴を口にしてしまい、一年のうちいく月かをハデスの元で過ごさなくてはならなくなったとい…

人間たちが飼っている動物を擬人化した世界。ペットには耳や尻尾、ひげがついていて、さながら仮装したかのよう。ペットたちは巨大な部屋の中に作られた人工の町に住んでいる。全てが計算されたサグラダ・ファミリアのよう。町の中心には鯨の骨格標本のような…

お前意外と口悪いのなと呆れたように笑われるのが好きだった。酒でぬるまった舌でだいぶゆっくり交わしていた会話の切れ目に、ふと思いついたように一言こぼすのだ。ちらりと一瞥呉れる視線がやけに柔らかく鼻先を掠める一瞬、そっと背筋を正したくなるように…

横たわったまま緩慢な仕草で右手を持ち上げた彼は路傍の犬でも追い払うかのように、二、三度払ってみせた。その背へ行ってきます、と呟いて逃げるように家を出た。 どこからか漂う梔子の香りはちょうど腐る寸前まで熟れた果実…

小さい頃、助手席が大好きだった。運転席との間にあるボックスには父親の好きなMDカセットが沢山詰まっていたけれど、ミュージカルに夢中になっていた私はレ・ミゼラブルやキャッツをひたすら流した。 ボックスの上には父親…

呼吸機、つけるの。 気付いた時には口から言葉が漏れていた。聞かせるつもりもなかった独り言に、直ぐに反応したのは母だった。やつれた表情の中で、ギラギラと鋭い眼が此方をキッと睨む。 「…

水底から浮遊するような唐突さで意識が覚醒する。妙にすっきりとした目覚めだと、寝起きの頭が冷静な分析をする。対して何故か身体は重い。取り除けないだるさが横たわっているのだけどこれ以上眠ることは不可能で、仰向けに寝転がって天井を眺める。 …

ホタルの番いを一組、虫かごに入れて暗い所に置いておく。すると2つの身体は光で相手を誘うがごとく、同じ明滅を繰り返すのだった。まるで彼らにしか分からない会話を交わすかのように。 αとΩが互いの匂いを辿って番うのは…

君が最後に見た景色は……風を切る逆さの世界、雨に濡れたアスファルトのくすんだ色なんだろう。流れる景色に君は、二人で飛ばした紙飛行機を思い描いたりしたんだろうか。 高い夏の空に飛行機雲だけが一本、真直ぐに伸びてい…

この世に溢れた音と色と温度は、様々に飛び交うベクトルは、結局同じところに行き着くのでしょうか。 君は僕の真っ白い遺書が折り畳まれていくのをキラキラとした瞳で見守ってたっけ。それがどんな想いを乗せて飛ぶかなんて知…

試合終わりの一礼をすると、彼はこめかみまで垂れた雫をきちんと仕舞われていた腹部のシャツで拭った。その際に窺えた身体つきの美しさに、コートの周囲の女生徒が数人、くすくすと笑いながら耳打ちを始める。内の1人が冷えた飲み物を渡し終え、彼にねぎらい…

ふいに訪れた安らかな時間に、俺の胸は甘く締め付けられた。不思議なことに、先程まで頭を痛ませていた愛憎の入り交じった熱は引いて行き、代わりに訪れたのは目の前の人がどうしようもなく愛おしいという想いだった。 「××…

何百、何千という黄色い命火が光の筋となって、まるで星空に届こうとするかの様に立ち昇る。遥かな頭上には天の川が横たわり、そこかしこの草むらで明滅する蛍たち。周囲をぐるっと光の粒で囲まれて、俺たちはさながら小さな宇宙の中に立っているようだった─…

膨れ上がった水滴が重力に負ける様を見ていた。割れた前髪の隙間に触れる窓ガラスは、とっくに生温くなっている。雨粒に映りこんだランプのせいで、ガラス越しを赤い水が伝っていくようだ。重苦しく横たわる時間を皮肉って、進まない車の列は苛立ちを乗算させ…

鼻腔を掠める潮の匂いにこんなものだっただろうかと記憶を擦り合わせる。これに似たものを幾つか知っているが思い出せないような、雑多で生々しい匂いだ。 「おーーーい!」 真っ青な空と、色…

今年もとうとう金木犀が満開になったという。怠惰な日常には風情もなければ、忙殺されるような出来事も無い。本来なら、まるで栞のない本のように黒々しい日々を連ねていただろうに、茫洋とした時間は何の感慨もなく頭上を通り過ぎていくばかりである。しか…

家を出るとき「今日は××の姓も長男も次男も捨て去ってまっさらな二人きり」とルールを課して、青春18きっぷ握りしめその日限りの逃避行が始まった。一日散々楽しんで帰り道、家が近づくほど虚しさ募る。ぼくら世間体とか後ろめたさとかで勝手に自滅して、…

昔、一度だけ死体を見たことがある。 大家族ゆえ家計はいつも火の車で、夏休みに家族旅行など夢のまた夢だったが、どういう経緯か両親が突然「山に行こう」と言い出したのだ。×つ子を育てる弊害かどこかぶっ飛んだ親なので、…

呑めぬ酒に飲まれて橋から落ちたとか、水面に映る己が顔に見惚れて足を滑らせたとか。噂は尾ひれをつけて人の口を好きに泳ぐ。殺しても生き返りそうな成りして、呆気なく死んだ馬鹿な奴。どうして許してやれようか? 秋も暮れ、心の臓が凍るような冷や水から…