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理の兄と再会したのは、八月の残暑厳しい熱帯夜だった。後を追うように東京で就職して数年、それなりに忙しく、たまに連絡は取り合っていたものの、声を聞くのは久しい。待ち合わせた居酒屋で、

「好きなもの頼めよ」

と懐の広いことを宣う人は、酒が入る前から上機嫌のようだった。

互いの近況もあらかた語り尽くし、腹もくちてしまうと、時折、妙な沈黙が食卓を支配する。それは、空になった義兄あにのコップにビールを注いでいる時だったり、いつの間にか口許に付いた米粒を指摘された時だったりした。その不思議と熱っぽい空白を埋めるように、義兄は次々料理や酒を勧める。それに乗せられる形で、酒にさほど弱くもないはずが早々に酔っ払ってしまった。無意識に気を張っていたことも原因の一つだろう。

だからきっと、告げるつもりもない秘密を明かしてしまったに違いない。酔いによる気の緩みが、固く閉めたはずの錠を壊してしまった。

唐突な吐露を浴びた義兄はしばし固まっていたが、数度瞬き、ぎこちなく口を開く。

「お前は言わないつもりかと思ってた。……超えちゃ駄目な線だろそれは」

何となくそうではないかと想像していたが、やはり彼は勘づいていた。その上で、聞かなかったことにするつもりなのだろう。微かに震える指は、汗をかいたビール瓶を撫でている。空気を読まない店員がデザートのバニラアイスを置いていった。更に気まずい沈黙が降り立つ前に、待っててやるからさっさと酔い醒ませ、と義兄は一方的に締め括った。

一口目のアイスが運ばれるのを見守って、机に突っ伏す。食い下がる度胸もなく、それがとても情けなかった。向かいから、ふわりと安っぽい甘味が香る。目を閉じれば、香りに誘われ脳裏をくすぐる幼き記憶がある。

◆   ◆   ◆

暑い夏の日、庭の片隅で肩を寄せ合っていた。ホースで散々辺りを水浸しにした後、殺意溢れる陽射しから逃れようと、庭木の陰で身を休める。その時ふいに甘い香りが漂い、頭上を見た。どうやら咲き乱れる白い花が源らしかった。視線に気付いたのか、義兄が嗚呼、と言って立ち上がる。そして枝の一つをつまんでみせ、

夾竹桃きょうちくとうだよ」

と、こちらを振り返った。直後、何かを企むような悪い顔をして、いい事を教えてやろうと大仰しく続けた。

「こんな可憐な花だけどね、猛毒があるんだよ」

義兄に倣って嗅いでみると、白い花弁からは、店で一番安いバニラアイスの香りがした。思ったまま、

「バニラアイスの匂いがする」

と言うと、彼はあっ! と声を上げ、冷凍庫の底に隠しといたんだった、と目を輝かせる。

「食べに帰るぞ」

と、決定事項のように告げた彼に手を引かれ、庭を横切る。蝉の音が降り注ぐ真夏日に、義兄の背がなぜか大きく見えた気がした。

◆   ◆   ◆

長い回想を経たところで、現実は変わらない。お前は可愛い弟だよ。そうやって一線を引かれたのだ。続柄も世間体も全てを蹴散らし、“可愛い弟”では満足ならないのだと叫べたら、どんなに幸せだろう。お上品に締められたネクタイを掴まえて、澄まし顔を貼り付けた彼にこう言ってやるのだ。嗚呼、お前が見て見ぬふりをしてきた俺の気持ちは、無様に独りきり、こんなにも肥大してしまった。今更なかった事には出来ないだろう。釣った魚に餌をやらなかった罪を一生かけて償ってくれ。そう言ってしまえたら。

けれど、そんな意気地はもうない。甘えた顔で許されるには、責任を知らず生きるには、大人になり過ぎてしまった。あの夏の片隅、甘いバニラの香りが酷く遠く、懐かしい。この先ずっと、あの刹那だけを胸に飼い、見果てぬ夢を見続けていくのかと思い至れば、ただひたすら遣る瀬無い。

酔いはとうに醒めている。けれど、アイスを食べ終えた義兄が声を掛けるまで、突っ伏したまま、雷に怯える子供のように自らを両の腕で抱いていた。

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