Untitled

下茎のように、着々と憎しみを張り巡らせて生きてきました。そう告げると、先生は何のことだか分からないとでも言う様に、あどけない表情で首を傾げてみせる。

◆   ◆   ◆

長く空き家だった処へ人が越してきたのは、土筆つくしが膨らみ始めた如月のことだった。狭い田舎なので噂は直ぐに回り、誰もが新しい隣人への興味で浮き立つ。まだ幼かった私には、大人達の言う“さっかだいせんせい”や“てんちりょうよう”が何を指すのか分からなった。けれど、娯楽に飢えた閉鎖的な生活に突如降ってきた非日常は、私の心を掴むには充分だった。

新参者は“先生”という呼称で浸透していった。先生はお手伝いさんとたった二人で、あの広い家にいるらしかった。そして、定期的な来客があるようだった。お手伝いさんとは違い、先生を外で見掛けることは殆どない。滅多に外出しないのは病弱なせいだろう、と誰かが言った。いや、相当な人嫌いに違いない、とまた別の誰かが言う。

ある日、学校から帰ると、台所で忙しげにしている母が丁度いいところに、と声を掛けた。

「これ、たけのこ煮たやつね。お隣に持って行ってあげて」

今ちょっと手が離せないから、と大きな鍋から灰汁を取りながら言う。家の敷地に密生する竹林から採れたものだ。茹でた筍をご近所に持って行くと、とても喜ばれるのだという。キヨさんに話はしてあるから、と背を押され渋々向かった。隣の門を潜るのは初めてだった。私は逸る鼓動を抑えながらおとないを告げた。お手伝いさんを呼んだものの、しんとして人の気配が感じられなかった。無防備に開け放たれた玄関から、薄暗い家の中が窺える。出直そうか迷っていると、ぺたりぺたりと足音が聴こえた。やがてかまちに裸の足が、次いで戸口からひょいと顔が覗いて、私を見下ろした。どうしたのと声を掛けられ、風呂敷包みを渡しながら、この人だ!と確信する。つるりとした頬も黒い髪も、勝手に思い描いていた“先生”よりずっと若く、軽い衝撃を受けた。

先生はねぎらいの言葉を掛けた後、お茶でもどうぞ、と抑揚に欠けた調子で私を誘った。遠慮すると、少し空白を設けてから、歳は?と聞く。十二と答えると、やはり無感動に、もうそんなに大きくなったのか、と呟いた。

先生がここに越してきてから、六年の月日が経っていた。

◆   ◆   ◆

季節は三度巡り、私は十五になった。最近は学校から真っ直ぐ先生の家に向かうのが日課になっている。初めは良い顔をしなかった母も、キヨさんに宥められ、お目こぼししてくれるようになった。篤実なお手伝いさんは、長年拗らせた厭世家に懐く存在を、喜ばしく思ってくれているようだ。

先生の方は相変わらずだった。私の一方的なお喋りに、感情の乏しい声音でああとか、うんとか相槌を打つ。そしていつ来ても、大量の紙と積まれた本にうずもれている。“作家大先生”の呼称は大袈裟ではなく、過去に××賞を取ったとかで、それなりに名が知れているらしい。というのも、活字嫌いな私は授業以外で本を読まないので、あまり実感がわかなかった。

そんな大先生の私生活はというと地味なものだ。ひたすらキーボードを叩いているか、印刷機から紙を吐かせているか、お茶菓子で一息ついているか、猫を構っているか、庭を散歩しているか。最低限の日課で成り立っている。痩せ気味ではあるが不健康そうには見えないので、元々の性質なのだろう。

私がもっと幼かった頃、不躾にも聞いた事があった。先生はどこか体が悪いのですか、と。すると、悪いと言っちゃ悪いけど体ではないよ、と謎掛けのような返答をした。外には出ないのですかと聞くと、あまり好きではないと言った。先生が言うのだから、そういう事なのだろう。以来その話には触れていない。そして勝手ながら、私は、外界と先生とを繋ぐ役目を担ったつもりでいる。だから今日もこうして色々と話して聞かせるのだ。

学校でのあれこれを語り終え、煎茶を一口含むと、私はあっと声を上げそうになる。今日はこの話をしようと意気込んできたのに、すっかり頭から抜け落ちていた。置かれた境遇も歳も異なる私達に、共通の話題はとても貴重だ。咳払いを一つして仕切り直す。

「そういえば、うちの畑で土筆を見掛けたんですよ。すらーと伸びて、傘もまだ熟れていないやつ。たんぽぽの綿毛もそうですけど、土筆を摘んでふーっと吹くと胞子が舞うでしょう? 私、毎年あれが楽しみで仕方ないんです。でも、いつの間にか現れて、直ぐに杉菜すぎなに変わっちゃうから、まめに見に行かないと駄目ですね。先生のお庭ではどうですか?」

先生は、縁側で猫を撫でていた手を止めて、土筆か、と呟く。

「いや、今年はまだ。うちの庭は、雑草の類いは抜いてしまうから、もしかしたら見当たらないかもしれないね。それはちょっと、惜しいかな」

そう言って、また猫を構い始める。

「惜しいかな」で済ませてしまう諦めの良さは、先生の専売特許だ。私はそれが少し歯痒い。きっと彼は、何年土筆を見なくても気にしない。それどころか、溢れんばかりの想像力を駆使すれば、違和感ひとつない土筆の物語でさえ書けてしまうのだろう。それは一体、喜ばしいことなんだろうか。私は、もう一度興味を引こうと試みる。

「勿体ないですよ。うちの畑なら幾らでもふーっと出来ます。隣だからきっとばれません。のんびりしているうちに、可愛げ無い杉菜に成長しちゃいますよ」

「それは少し、魅力的なお誘いだなあ」

のらりくらり躱され、暖簾に腕押しだ。ふと、何かに気付いたように、そういえば、と口を開く。

「土筆と杉菜が同じ植物だとよく知っていたね」

私は得意気に胸を張ってみせた。淡黄色の茎が成長し、やがて緑の葉に変わるのは、田舎の子供達にとっては常識である。すると先生は、悪戯が成功したかのように、ほんの僅か口角を上げた。

「いや、少しだけ違うかな」

先生が語るには、土筆が成長して杉菜になる訳ではないらしい。どちらも地下茎で繋がっているが、別ものなんだそう。土筆は春が過ぎれば枯れてしまうが、遅れて生えてくる杉菜は秋頃まで生い茂っている。

「杉菜が枯れた後も、地下茎はずっと成長し続ける。見えない所で年々領土を広げているわけだよ」

知識を披露し終えると、そう締め括った。私は感心して、先生は物知りですねと褒め上げた。彼は今さら恥ずかしげに目を逸らす。

「昔取った杵柄だよ。これでも物書きの端くれなんでね」

照れる先生は珍しいが、こちらも引き下がれない。そんなに詳しいなら、土筆の命が短いのも知っているでしょ? 一緒に見に行きましょうよ。せんせい、ね、お願い。

この先一生見れなくていいんですか、と少し語気を強めて詰め寄ると、先生は困ったように頬を掻く。子供の我儘にどう付き合うべきか、分かりかねるといった風だった。そして、

「先のことは分からないけれど、もし見れないなら、それもきっと運命さだめだろうね」

とこちらを見て、目尻を緩める。そんな慰めにもならない言葉を貰い、思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。長年を先生と過ごし、私は、“運命・・”という言葉が彼の口癖であることを知ってしまった。

◆   ◆   ◆

瞬く間に月日は流れ、私はもうすぐ十八になる。もう無垢な子供ではない。けれど狡猾な大人にもなり切れない。中途半端に広がった視野を持て余し、最近は先生の言う“運命”という言葉をぼんやり思うことが多くなった。“なるようになる”とでも言いたいんだろうか。けれど、私はそのどちらにも明るい意味を見出せない。少なくとも先生は、諦念以外の意を含ませているようには考えられなかった。これも運命、それもまた運命……。そうやって、彼は様々な可能性を諦めてしまうのだろう。それは何だか、寂しいように思う。

先生に、沢山の美しいもの、面白い話、楽しいことを教えたい。そして出来れば、私と同じ世界を見てほしい。そんな風に思うのは、私の利己心でしかないのだろうか。若気の至りと一蹴されてしまうのか。答えの出ない想像ばかり、自問自答している。

先生は今日も、縁側で早春の斜陽を浴びている。私は、後ろ手に隠していたハンカチを二人の隙間に置いた。先生の目が興味深げに細められているのが、見ずとも想像できる。ひらりと包みを開くと、覗き込んだ先生が、土筆? と妙に澄んだ声を出す。白い布の真ん中に瑞々しい茎が三本、刈り取られた命を晒している。先生の指が内のひとつを摘み、久しぶりに見たなあと、僅かに弾む声音で言った。その瞬間、私の胸は、なぜか泣き出す寸前のようにぐっと詰まる。

気づかれぬよう深呼吸一つして、「せんせい」と努めて丁寧に呼ぶ。

「先生、私は、地下茎のように、この数年間着々と憎しみを張り巡らせて生きてきました」

まるで土筆のように。先生は何のことだか分からないとでも言う様に、あどけない表情で首を傾げた。

ねえ、先生。これからする話を聞けば、あなたはきっと、気の迷いだと瞳を泳がせるのだろう。臆病なあなたは、もうここには来るな、と言って遠ざけようとするかもしれない。

でもね先生、私は「惜しいかな」と様々なものを諦めていく姿を、これ以上見ていたくないんです。若気の至りだとか、歳が離れて過ぎているだとか、そんなものは些細な問題だ。あなたが諦めてしまった、想像では補えないような絶景、時に刃ともなる言葉たち、交わって色を変える人の情。そういうものを、私は、全て魅せてやりたい。あなたが嫌がるなら、外へなんて行かなくていいです。私があなたの目や、手脚となって何処へでも行き、全部語って聞かせます。それには時間がいくらあっても足りないでしょう。私より早く逝ってしまうあなたの運命・・が憎くて憎くて、仕方ない。

先生、私は一生かけて、その運命・・とやらに復讐してみせます。決して裏切ったりなんてしませんから、ちゃんと待っててくださいね。

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